「承認」はギブ・アンド・テイク


今回は非常に小難しいことを考えました。
テーマはキングフラダンスさん(id:kinghuradance)の日記でも考察されている「承認」について。

自分のことを認めてほしい。
自分に対して惜しみない愛情を注いでほしい。
どこかに自分の才能を認めてくれる人がいて、その人がいつか私の元に手を差し伸べてくれて大きな仕事を与えてくれることをどこかで期待している。


ブログに書くと非常に痛いんだろうな。ということは自覚していますが、それでもそのような感情が自分の中のコアをして存在していることは認めないといけないのだろうな。と思っています。


(中略)


でも、多くの場合「誰かに承認されたい」と思ってただ待っているだけでは、誰かに承認される機会を得ることはあまりにも少なかったりします。
自分からもっと外界に対して働きかけていかなくては。

http://d.hatena.ne.jp/kinghuradance/20071201/p1


私も同じようなことを一生懸命考えていた時期があります。
サークルのリーダーになって間もない二十歳の頃、先輩から「お前は将来どんな風になりたい?」という質問をされて「みんなに、認められる人間になりたいです。」と言ったら、「器が小さい」と一喝された記憶があります。ショックでした。まあ今となってはいい思い出ですが、正直あの頃は認めてもらたいのに認めてもらえないというフラストレーションの塊だったと思います。


人から認められたい、たくさんの愛を享受したい、と思うことは誰にでもある感情ですし、別に恥ずかしいことではありません。それを恥ずかしいことだと思ってしまうと、自分自身からも認められないことになります。
そして、自分自身を認められない人は、ネガティブスパイラルに巻き込まれ、結局もともと持っていた魅力すらも失っていくような気がします。


では、どうすればいいのでしょうか。


私の辿りついた結論は、「人を認める」ということでした。
キングフラダンスさんもおっしゃっている通り、「待っているだけでは何も起きない」ということは、まさにその通りだと思います。


具体的に申し上げますと、私の場合、一人のひとを、ある点においては軽蔑し、別のある点においては尊敬するという視点で周りを眺めることから始めました。互いが互いにそういった視点で見れる関係を構築することを目標としました。それが「友情(承認)*1」の理想系だと考えたからです。すると、それから自分に対しても軽蔑や尊敬のまなざしが向けられるようになったかどうかは判断しかねますが、私が前向きになった分だけ、すべてがうまくまわっているような気がしたのです。なによりポジティブな視座から人間関係を見るようになったので、これまでのように悩むことはなくなりました。


もちろんこんなこと口に出して常日頃言ったりしてませんので、このようにブログに書くこと自体も恥ずかしいことなのですが、せっかくなので私の考えていたことを暴露しておこうと思い記しました。


小難しいことのようですが、他者への承認は、みんな意識的、無意識的に行なっているんだと思います。


以前、「認めること」すなわち「認められること」であると、主張した理由は、このような自身の経験によるものでした。


最後にショーペンハウアーと邑井操のよく似た名言をご紹介します。

われわれ各個人は、他人の袖に自己を移す鏡を持っている
ショーペンハウアー『パレルガとパラリポーメナ』

人間関係はこちらの出方次第。
あたかも鏡の前に立つようなもの。こちらが笑えば向こうも笑う。
こちらがしかめっ面をすれば相手も渋面になる。
評論家・邑井操

長々と偉そうに申し訳ありませんでした。読んでいただきありがとうございます。

*1:この場合、哲学的には社会的な「承認」ではなくて、人間同士としての「了解」であると表現されるようです。あしらからず。