いかにして「強制力」をネット上に実装するか


研究室のメンツで晩飯を食った。
工学部西門にあるラサという店だ。
「チキンからあげ+チキン南蛮」というチキンな野郎が注文しそうなメニューを頼んだ。
今日は、いかにも情報学科っぽい談話だった。
そこで、いろいろと語ったこと思ったことを書き留めておく。


既存のマスメディア、つまりテレビやラジオ、新聞なんかは強制力がうまく働いている。それは情報を垂れ流しで提供しているため、こちら側にその情報を受け取るか否かの選択肢がないことを指している。情報選択の自由がないことを、ここで強制という。もちろんテレビのニュースを無視することも、新聞の社説を読み飛ばすことも可能だが、既存メディアはひたすら我々に向かって情報をプッシュしてきている。受身である限り、どうしてもそういった情報は目に飛び込んでくるものだ。


それと比較して、新しいメディアとしてのネットは自由である。ネットの情報は、受け取る際に選択を幾度と繰り返す。読みたくないもの、見たくないもの、興味のないものはスルーして、好きなものだけにアクセスすればよい。ネットの情報は個人の志向によって捕食され、嗜好によって消化されている。ネットメディアは、自由だからこそここまで発展したきたのだ。


しかし、強制力が悪いとは言い切れない。テレビの垂れ流しニュースをただ見つめているだけで、興味のあるなし関係なく世の中の出来事を知ることができるし、選択する手間も要らない。新聞を広げて眺めるだけで、紙面に割かれている面積を見れば、どのくらい話題性のあるニュースなのかを一目で認識できる。情報をネットだけに依存していると、興味のあることばかり詳しくなって、周りが見れない視野狭窄に陥るだろう。


情報の偏食は、カラダに良くない。注意してくれるママが必要なのだ。
ママはこう言う。
「お肉ばっかり食べてないで、きちんとお野菜も食べなさい」と。
これが強制力であり、ネット上に必要とされている要素なのだ。
こういったサービスやシステムを実装するにはどうすればいいのか分からない。
ネットの基盤がインタラクティブな仕組みだから、複雑な話だ。


人間はいつも“相反する二つのもの”を欲す。
自由を希求しながらも、強制を渇望しているのだ。


この話はメディアだけに留まらず、コミュニケーションツールとしてのネットにも言えるのではないか。
mixiを例に挙げよう。
マイミクとは頻繁にやり取りをする仕組みなので、近しい友人との仲はより強化されるだろう。
しかし、中途半端に仲のいい友人や、あまり趣向の合わない友人との仲を強化することは難しい。
ネット上にコミュニケーションツールは無数にあれど、その要望をカバーしてくれるものは皆無だ。


世の中の人間関係というのものは、学校の「クラス割り」に代表されるように、そのほとんどの知り合うきっかけは強制的なものである。自分の好きなように友人を選択できるわけではない。
コミュニケーションツールに強制力を加えることで、“既に気心の知れた趣味の合う友達”とばかりつるむのではなく、社交辞令的な人間関係をネット上でも維持できるようになる。
それによって、サイバースペースにも社会性のある人間関係インフラが構築できるのではないだろうか。それを心のどこかで我々は求めているのではないだろうか。


「人間は自由の刑に処せられている」と言ったのはフランスの哲学者サルトルだが自由とは本来息苦しいものだ。しかし自由の刑から脱走し、安易な考えで強制を求めることは危険だとドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムは警鐘を鳴らす。それはナチズムを生んだプロセスであるからだ。世の中はIT革命で大きく変貌し、今もなお変化し続けているが、古き時代が犯した過ちを踏襲してはいけない。